防災・減災への指針 一人一話

2013年12月15日
命を守る ―救助活動と消防官の使命―
多賀城消防署 主幹兼救助隊長
鈴木 啓一さん

発災直後の対応

(聞き手)
 発災時はどちらにいらっしゃいましたか。

(鈴木様)
 その日、私は非番で大代にある自宅におりました。息子2人と、息子の友だち7人が家にいた時に震災に遭いました。激しく家が揺れる中、息子たちに声を掛けていた事を覚えています。息子たちの友達を自宅に帰して、息子たちには「津波が来るかもしれないけれど、2階にいれば大丈夫だ」と伝えて、家に残したまま消防署に向かいました。

(聞き手)
ご自宅から消防署に向かう時の様子についてお聞かせください。

(鈴木様)
 家の目の前にJX日鉱日石エネルギー㈱仙台製油所がありまして、そこの煙突から黒い煙が何本も立ち上っている状況でした。そのまま車に乗り、念仏橋を通った時に、マンホールが隆起していて、ひび割れをしている箇所もありました。そういう状況を確認しながら消防署に向かいました。その時は、まだ大きな渋滞は起きていませんでした。

(聞き手)
車の中で何か、津波に関する情報は得られましたか。

(鈴木様)
 何かラジオで言っていた事は覚えていますが、その後の出来事の方がとても大きいので、よく覚えていません。

(聞き手)
 大代地区は津波被害が甚大だった地域ですが、ご自宅に被害はありましたか。

(鈴木様)
 自宅は床上170センチ近く浸水し、大規模半壊となりましたが、息子たちは津波が来る前に、自宅近くにある小野屋ホテルに避難し、無事でした。また、妻はパート先から近くの小学校に避難し、三男も小学校にいて無事でした。

(聞き手)
 その時の様子で、印象に残っている事はございますか。

(鈴木様)
 消防署に来た時は、かなり慌ただしい状況になっていました。すぐに着替えて待機していたところ、火災が起きたとの通報で出動しました。それは、JX日鉱日石エネルギー㈱仙台製油所の煙突から上がっていた炎が窓に映っていただけの事で、誤報でした。
その後、大代地区の避難広報に移行しましたが、幹線道路がだいぶ渋滞している様子でしたので、災害発生に備えるため、無線ですぐに署へ呼び戻されました。

(聞き手)
その後、津波が襲ったのですが、その時の様子はどうでしたか。

(鈴木様)
 多賀城消防署に一度戻って来たところ、すぐに救助の指令が入りました。大代地区で水難救助の指令だったのですが「先ほど通ったばかりの大代地区で、どうして水難救助なのだろう」と不思議に思いながら準備をして向かいました。道中、国道45号に掛かる多賀城橋の途中で交通事故があり、そこで怪我人の確認などをしました。
その後で大代に向かおうとした時、目の前に津波が来ました。最初はそれが津波だとわかりませんでした。多量の水が奥の方から流れて来たので、一瞬「これは何だろう」と思っているような状態でした。
 水が流れて来たのですぐに車を止めるように、他の隊員に命じました。目の前では車に乗っている方が沢山いましたので、出来る限りの範囲でその方たちにすぐに外に出るよう呼びかけたり、私たちが救出したりしました。それから徐々に水位が上がってきたので、これ以上の救助活動は出来ないと判断し、多賀城橋まで戻りました。津波が来てから救助活動中止まで、僅か数分の出来事でした。

救助活動の優先順位

(聞き手)
 当時の対応で上手くいった事、上手くいかなかった事をお聞かせください。

(鈴木様)
 個人的には、何一つとして上手くいきませんでした。消防で保有している資材・機材と職員数には限りがあるので、広範囲にいる多くの要救助者を短時間で救出するのは非常に難しい状況でした。
発災当時は冬季という事もあり、津波でおぼれた方以外にも、助けを待つ中で長時間の寒さに耐えられず、低体温で亡くなったと推測される方が多くいらっしゃいました。助けを待つ人の所へ全て回れなかった事が悔やまれます。
 その後は、ボートでの救助を主に行いました。一度に救助出来る人数は最大10人程度でしたので、行く途中で声を掛けられても、基本的に建物の中に取り残された方で具合が悪くない方については事情を説明して後回しにさせて頂きました。
水に浸かって震えながら助けを待っている人、子どもや体の不自由なお年寄りなど、優先順位を付けて救助活動に当たっていました。
市民の皆さん方は比較的冷静で、事情を説明すれば、こちらの話を理解してくださって、私たちとしても本当に助かりました。

(聞き手)
 救助活動の中で、大変だった事はなんですか。

(鈴木様)
 多賀城橋の先に歩道橋があるのですが、そこに100人以上の方が避難して取り残されている状況でした。
当時は雪が降っていて相当寒い状況でした。その橋と私たちがいた場所はわすか数百メートルの距離なのですが、ボートなどの水難資機材が届いておらず、すぐには助けに行く事が出来ませんでした。
そのような場所が他にもいくつかありましたので、多賀城橋の現場には、ボートなどが到着するまでかなりの時間を要しました。
その間、消防車両から建物に取り残された方や歩道橋に避難した住民に呼びかけをする事しか出来ませんでした。

(聞き手)
 その時、隊員の方々は色々な場所に分散して活動されていたのでしょうか。

(鈴木様)
 そうですね。多賀城消防署で40人くらいの職員がいますが、それぞれ複数の現場に向かいました。普段の災害ではチームで動くのですが、今回は車両一台ずつで様々な場所に向かいました。

避難時の放置車両と渋滞の問題

(聞き手)
 どのような対策や考え方、行動を取ることが防災に繋がるのでしょうか。

(鈴木様)
 行動や考え方について、個人的にまとめてみたのでお話します。
東日本大震災の報道でも言われていますが、避難する事の重要性を再認識させられたと思います。
多賀城市は海に面している部分が少ないのですが、隣接している仙台港から津波が来襲し、市の面積の約3分の1以上が浸水しました。市内で亡くなられた方は188名に上ります。
亡くなられた方の中には、もう少し早く避難していたら助かった命が非常に多くあったのではないかと思います。
 また、多賀城市には国道45号と産業道路と呼ばれる県道が通っていまして、非常に交通量が多い場所でもあります。
車両で移動している間に地震に遭遇したため、車から降りて避難する方が多くいました。多くの車両がそのまま放置されたので、非常に道路が渋滞してしまい、車で避難しようとしていた方たちが渋滞に巻き込まれて、身動きが取れなくなり被災された方が多くいたようです。
多賀城市の防災担当とも、車の避難については色々な角度で検証していますが、正確に情報収集をして、いち早く避難する事が大事なのではないかと思っています。
 避難方法についての話ですが、自宅で地震に遭遇して避難する場合は基本的に自分の命は自分で守ると、震災前にもよくお話をさせてもらっていましたので、恐らくは、てんでんこに避難するような状況になると思います。
ですが、地域住民の中にはどうしても自力で避難出来ない方も多くいらっしゃいます。そこで、共助の精神を発揮し、ご近所さんに声を掛けながら一緒に避難することを念頭に置いて頂けると良いと思います。

セルフレスキューの指導

(聞き手)
 震災への有効な備えや取り組みについてはどのようにお考えでしょうか。

(鈴木様)
 東日本大震災時は災害が広範囲であったことから情報が混乱したり、断水の影響で、消防水利として消火栓から水を給水出来ない状態になったりしたため、救助活動は困難を極めました。
しかし、今回は消防庁長官の指示によって、緊急消防隊員の応援として、長野県、岡山県、兵庫県、徳島県の552名と車両79台に来ていただき、共に活動を行いました。
しかし、消防車が動くとどうしてもガソリンを使います。暖房の使用なども含めた燃料不足だったり、交通インフラの遮断による食糧不足や支援物資の搬送の遅れだったりが、災害対応の遅れに繋がるなど、様々な問題や課題が明らかになってきました。
今回の災害対応をふりかえり、これまで現場で活動してきた隊員の経験や客観的な分析などを検証して、また来るかもしれない大規模災害に対応出来るように強化と充実を図ることが必要です。
 住民の方たちに対しては、消防署で、セルフレスキューと呼んでいる住民主体の救助方法要領や応急処置法、身近にある物で搬送する方法などを、多賀城市とタイアップした指導を始めています。
地区の防災訓練などに参加して頂いて、セルフレスキュー技術を学んでもらう事が必要ではないかと考えています。

津波救助におけるマンパワーの限界

(聞き手)
 消防署では、震災後にマニュアルなどの変更はありましたか。

(鈴木様)
 消防本部と各消防署隊員にそれぞれ震災初動対応マニュアルがありますが、色々な意見を取りまとめた上で変更しています。

(聞き手)
 津波に対する救助や避難方法についての課題などをお聞かせください。

(鈴木様)
 津波の場合はとにかく避難する事が重要なので、私たち、消防隊員も含めて、正確な情報を収集して早めの行動を取る必要性があると思いました。
津波の時には、人員と資機材がないと救助を行うのが難しいです。マンパワーだけでは補えない部分をどのようにしていくのかが今後の課題です。

(聞き手)
 公助で補えない部分を自助共助で補うためにも、まずは早く逃げるという啓発が大事という意味でしょうか。

(鈴木様)
おっしゃる通りです。

ドライスーツやボートの備え

(聞き手)
 救助活動をする際、大半の住民の方々にとっても、津波は初めての経験だったと思いますが、住民の方々の反応はどのようなものでしたか。

(鈴木様)
 津波が押し寄せた時は阿鼻叫喚の状況で、皆さんの叫び声がありとあらゆる方向から聞こえました。
その後、日が暮れた頃になると、しんと静まり返りました。
非常に静かで、私たちが声を掛けると反応する状態でした。水に浸かっていた方たちは、あまりの寒さで震えて声を発する事もできませんでした。
それから、フェンスにしがみついている人、車の屋根の上でじっとしている人など、ライトで探して要救助者の位置を確認した上で、ボートで救助しました。
そして、ボートにこれ以上乗せられないという状態になると救護所に搬送するという救助方法を繰り返しました。

(聞き手)
ボートはだいたい何人くらい乗れるものなのでしょうか。

(鈴木様)
 5~10人くらいです。
私は水難救助も兼務していますので、ドライスーツを着て、水中での活動もしました。
私が使っていたのは5人乗り用のボートで、それを押して移動し、要救助者を乗せて救助していました。
途中、足が届かないような場所も沢山ありましたので、その時は足ヒレを付けて、他の隊員3人と泳ぎながらボートを押して移動していました。
 ドライスーツを着ていない隊員は、どうしてもボートに乗らなければいけないので、乗せられる人数は限られてしまいます。
また、ボートはゴム製なので、瓦礫に引っかかり破れてしまう事もありました。

(聞き手)
 ボートは何艇ほど使っていたのでしょうか。

(鈴木様)
多賀城消防署では2艇あります。ゴムボートと、アルミ製の折り畳み式ボートです。
それ以外にも、塩釜消防署から借りたり、多賀城市で持っているボートを借りて活動していました。

(聞き手)
 今回のような救助の経験はありましたか。

(鈴木様)
 今回のような津波の活動は初めてでしたが、大規模災害であれば、岩手宮城内陸地震の時に、栗原市へ広域応援として災害派遣に行った事がありました。

(聞き手)
 例えば、チリ地震による津波被害が過去にありましたが、そういった津波の話などを、ご両親などから聞いた事はありましたか。

(鈴木様)
 塩竈市出身という事もありまして、チリ地震津波については、色々な資料で目にする機会がありました。
ですが「昔はここまで船が流されたのか」程度の認識で、今は防潮堤もあるので「大丈夫だろう」という安易な考えでした。
消防の仕事に就いてからも、何度か津波注意報などで警戒に行った事がありましたが、実際の潮位の変化は数センチ程度だったので、今回もまたその程度だろうと思っていた気持ちはどこかにありました。

資機材の不足と少人数での救助活動

(聞き手)
 初めての津波被害での救助活動だったと思いますが、その時の様子をもう少し詳しく教えてください。

(鈴木様)
 先ほどもお話したように、長時間移動しながらの救助活動を、次の日の朝までずっと繰り返していました。そして、一度だけ1時間ほど休憩して、救助作業を続けました。
単純作業でしたが、体力はかなり消耗しました。
泥水に浸かりながらの作業だったので、予想以上に体力を使う事になりました。
 また、動けない方を数人で救助しました。
例えば、2階に動けないお年寄りの方がいたとしたら、2階から移動させてボートに乗せるなどといったことを、繰り返していました。
少人数で救助活動に当たっていましたが、よく、怪我をせずに済んだなと思いました。

(聞き手)
怪我をされた隊員さんはいましたか。

(鈴木様)
 多賀城消防署ではいませんでしたが、応援に来てくれた他の消防の方たちの中には、水の中で足を切って、怪我をした方がいらっしゃいました。

(聞き手)
 応援に来てくださった方の姿を見て、どうのように思いましたか。

(鈴木様)
 沢山の方が応援に来てくれたので、これで少しは救助の幅を広げられると思いました。本当に有難かったですね。
とにかく、資機材が無い状態でしたので、そこに沢山の人員と車両が応援に駆け付けてくれましたので、本当に良かったと感じました。

(聞き手)
 数日後、冷静になって、まちの様子を見渡した時、どのようなお気持ちでしたか。

(鈴木様)
 救助していた時は、目の前の事をこなすだけで精一杯でした。
ある程度水が引いて瓦礫と化したまちを見た時は、これからどうなるのかなと思いました。
それから、製油所の火災は、瓦礫などの影響ですぐには消火活動に行けない状況になっていました。
 また、福島原発で爆発事故がありましたので、それについても不安に思っていました。
ですが、凹んでいても仕方ないので、目の前の事に集中して取り組もう考えました。

(聞き手)
 勇気付けられた市民の方の言葉、あるいは辛かった出来事など、何か覚えていることはありますか。

(鈴木様)
 救助した時に感謝の言葉を言われた時は、とても嬉しかったですが、凄く怒られた事もありました。
救助に行くのが遅くなればなるほど「どうして救助に来てくれなかったのか」とお叱りを受けた事もありました。
 また、救助していると、ご遺体が浮いているのを見かけました。
生きている方を優先にしていたので、生死の確認をするだけで、ボートに乗せる事はしませんでした。ご遺体は流されないような所に置きました。本当に辛い状況でした。

チームワークの力と個人の力

(聞き手)
 他の災害での救助活動の体験が、今回の東日本大震災でも活かされましたか。

(鈴木様)
 活かされたと思うのはチームワークです。どの災害現場でもそうですが、基本的に経験した事のない現場の方が多いので、普段訓練している以上の事をしなければいけません。
ただ、実際に救助活動を行うのは自分ではなく、他の隊員が行う事もあります。
ですから、そこは他の隊員を信じるしかありません。どんな災害現場においてもそうですね。

(聞き手)
常に自分で考えて行動する訓練もされているのでしょうか。

(鈴木様)
 そうです。今回の震災は、複数の人数が集まって1つの災害対応をするものとは違いました。
ですから、今回のような場合だと、個人の能力を向上させていかなければいけないと思いました。
私は、以前、宮城県防災航空隊に3年間勤務していて、他県の大規模林野火災現場に行った事があります。
ですが、今回のような津波災害は経験がありませんでした。
他にも、岩手・宮城内陸地震での災害応援で栗原市に派遣され、救助活動もしました。これは、他県から派遣された消防、警察、自衛隊が一緒になって活動した現場でもあり、チームワークの重要性を改めて認識していたので、今回も、チームワークに必要な情報を、できるだけ応援に来ていただいた方にも提供しました。

(聞き手)
 多賀城消防署には、新人隊員もいらっしゃると思いますが、震災後。ストレスなどは感じていらっしゃいませんか。

(鈴木様)
 惨事ストレス検査のためにアンケートなども取りましたが、結局ストレスを感じていても、他人に言えないことが多いので、解決するのには隊員同士で話し合って解決していくしかないと思います。
今回に限らず、私たちが向かう現場は、例えば、火災で亡くなった方のご遺体に遭遇するなど、色々な場面で辛い経験をします。
それを隊員同士で話すなどして、心の負担を減らし、徐々に経験を積んでいくしかありません。
それと並行して救助訓練を行い、心身両面で向上していく方法が良いと思います。

(聞き手)
 多賀城市の今後の復旧、復興に向けてのお考えはございますか。

(鈴木様)
 消防職員という立場から言うと、防災に強いまちづくりの担い手として、市民の方々と私たち防災関係機関が協力して、復旧復興に向けて取り組んでいるところです。
市内では震災以降、被災した建物の新築や改修工事などが急速に進んでいる状態です。法令を遵守しながら、これまで経験してきた事を活かし、防災に強い多賀城市を目指していきたいと考えています。

世代交代と技術の伝承

(聞き手)
 東日本大震災を経験して、後世に伝えたい事や教訓はございますか。

(鈴木様)
 今、消防署でも、団塊世代の大量退職が始まっていまして、隊員の入れ替えが大きい時期になりました。
経験豊富な隊員が、多く退職し、若い隊員が多く採用されていますので、救助技術伝承を重要視しています。
 私たちは市民の皆さんに指導する立場ですので、震災の経験を少しでも多くの方に伝えて、防災訓練等を通じて、震災経験を風化させないようにしていく事が肝要ではないかと思います。
命を守るためには、迅速な避難が必要だと思いますので、これを念頭に置きながら、様々な訓練や講演会、講習会などの場で市民の皆さんに経験と教訓などを伝えていきたいと思っています。

(聞き手)
 震災後、避難行動など、ご家族と話し合っていますか。

(鈴木様)
 私の安易な発想で、震災直後、息子たちに、2階にいれば大丈夫と言ってしまい、そのまま置いてきたような状況でしたので、災害活動をしていた時も、安否を心配していました。
息子たちは、私が出勤した後、近所の人たちと一緒に、近くのホテルに自主避難したそうです。
その際、ホテルの窓から、自分の自転車や多くの物などが、津波で流される光景を目撃して、かなり恐怖を感じたと言っておりました。
最終的に、家族は全員助かったので良かったですが、やはり連絡系統の確認をしておくべきだと強く感じました。
何かあった時にはどうするか、どこへ避難するか、そういう話をしています。

(聞き手)
 今回のような甚大な災害の時は、ご家族より任務優先だったと思いますが、ご家族に対して、感謝の気持ちなどをお伝えになりましたか。

(鈴木様)
 家族は、そういった部分は理解してくれていて、「家に居ないのは、いつもの事なのでしょうがない」と考えているようです。
逆に、そう思ってもらうことは有難く感じられます。
ただ、後から、息子に、もう少しだけ家に居てほしかったと言われました。
家族は不安な気持ちで過ごしていたのだと思うと、申し訳なく思いました。

教訓を語り継ぐ使命を持つ

(聞き手)
 震災後は、県外で、震災関連の講義などをされたとお聞きしましたが、その時の様子を教えてください。

(鈴木様)
 依頼を受けて茨城県にある消防学校に行きまして、救助担当の消防職員と学生に対して「東日本大震災の活動の概要」という内容で講義に行きました。
また、消防学校の救助科では、震災救助に関して、授業で話をしたことがあります。
さらに、総務省消防庁で「東日本大震災における津波災害に対する消防活動のあり方研究会」での救助活動分科会で招聘委員として、自分が経験した救助活動及び塩釜消防本部の対応等についての報告をしました。

(聞き手)
 講義をされた時の学生さんの反応はいかがでしたか。

(鈴木様)
 皆さん、とても真剣に聞いていました。

(聞き手)
 これから消防署員になる若い方たちに向けて、何か伝えたい事はございますか。

(鈴木様)
 どこに行っても話す事ですが、まず命の大切さを伝えるようにしています。命を守る術をとにかく自分で習得し、周辺の人に伝えていく事が大切ではないかと思います。

(聞き手)
 その他で、伝えておきたい事はありますか。

(鈴木様)
 災害は必ずまたやって来ます。
そして、必ず、私たちに課題や教訓を残すのと同時に、人の心を温めるや生命力の強さなども教えてくれます。
課題を乗り越えて、教訓を語り継いでいく事が、私たち消防官の使命だと感じています。
同じような災害が起きた時に、尊い命が決して失われないようなまちづくりに貢献していく事が重要だと思っています。
 最後になりますが、東日本大震災では本当に多くの方が亡くなりました。
救助に向かった消防隊員や消防団員の方などが亡くなっています。
本当に志半ばで亡くなられた方が多くいらっしゃいました。
そういった方々の遺志を胸に、頑張らなければいけないと感じています。